沿革

 日本におけるアイスランド研究は、明治期の小泉八雲(1850-1904)から戦後の山室静(1906-2000)に至るまで、とりわけ北欧神話や中世文学への関心を中心に翻訳や紹介というかたちで行われてきました。なかでも山室は、ノーベル賞作家ハルドール・ラクスネスの主著『独立の民』(林穰二・山口琢磨と共訳、講談社、1957)、『アイスランド 歴史と文学』(紀伊国屋書店、1963)、『赤毛のエリク記:古代北欧サガ集』(冬樹社、1974)などを通じて、それまで十分に知られていなかったアイスランドの歴史と文化を定着させようとしました。

 山室らが築いた日本におけるアイスランドへの関心の高まりの一つの帰結として、1973年には『エッダ 古代北欧歌謡集』(新潮社)が、1979年には『アイスランド サガ』(新潮社)が谷口幸男(1929-2021)により、古ノルド語から直接翻訳刊行されました。その谷口は、次のように証言しています。

 モチベーションを異にする個人レベルでの研究活動は従来からありました。しかし同学の士の研究交流をより活発にし、そのため全国的な組織をつくって学術の一層の向上と充実をはかろうとする動きが79年暮あたりから胎動を始めました。それが世話役の周到な根まわしと多くの心ある方々の御理解によって推進され、会の成立にこぎつけました・・・

『日本アイスランド研究会会報』1(1981):1 (初代会長・谷口幸男氏の言葉より一部引用)

 このような関係者の熱意と協力により、1981年5月16日に、慶應義塾大学三田キャンパスで開催された第1回総会をもって「日本アイスランド研究会」[(引用者註)発足当初の呼称]が誕生しました。本研究会は「アイスランドの社会と文化の研究、およびこれの日本における向上を目的とする」(会則第2条)全国的な学術団体であり、発足当時の会員は14名でした。第一回の公開講演会は、熊野聡による「北欧初期社会研究の意義」と谷口幸男「スカルド詩人の風」でした。初代会長は谷口、事務局を運営したのは石川光庸と菅原邦城でした。なお、1986年には、「日本アイスランド研究会」から「日本アイスランド学会」へと発展的に名称を変更しました。同時に会則第2条にも、アイスランドに関する研究について「アイスランドの⾔語 ・社会・ 歴史・ ⽂化に関連する他の諸国についての研究も含むものとする」という注が追加され、時代・地域ともに開かれた会にするという方針が示されました。

 研究会は、1981年以来、毎年一回の総会と公開講演会を開催し、会報を発行しました。会報には公開講演会の原稿もしくは要旨、エッセイ、会員の消息などが掲載され、当該年度の活動記録であると同時に、普段は離れている会員間の相互交流の役割も果たしました。1993年のヘルマン・パウルソン、1996年のハルドール・ステファウンソンのように、来日した研究者が講演することもありました。また当初より適宜ニューズレターも会員宛に送付しています。ウェブで簡単に情報も入手できない時代は、会員の業績をまとめた『会員公刊論集』(1998年の15号が最終巻)も刊行していました。

 1991年には、学会創設10周年を記念して、『サガ選集』(東海大学出版会)が編まれました。2001年という20周年の節目には、早世した早野勝巳(1941-98)を偲ぶかたちで、『アイスランドのサガ中篇集』(東海大学出版会)が刊行されています。両著作を刊行した東海大学出版会(現東海大学出版部)は、会の発足以来法人会員として、長年にわたり会や会員の研究の公刊を後押ししました。菅原邦城編訳『ゲルマン北欧の英雄伝説 ヴォルスンガ・サガ』(1979)、シーグルズル・ノルダル(菅原邦城訳)『巫女の予言:エッダ詩校訂本』(1993)、熊野聰『サガから歴史へ : 社会形成とその物語』(1994)、森信嘉訳『スカルド詩人のサガ』(2005)といった、歴代会長らによるアイスランド研究に欠かせない書籍の刊行も担っていました。その後、会発足30周年を記念して、会員による論文を集成した『アイスランドの言語、神話、歴史』(麻生出版、2011)も刊行されました。

 2001年には、レイキャヴィークに日本大使館が、品川に駐日アイスランド大使館が開設されました。そうした政府レベルの動きと並行して、ビョークやシガーロスらアイスランド人による音楽、『春にして君を思う』(1991)のようなアイスランドを舞台にした映画、アーナルデュル・インドリダソンらアイスランドの人気推理小説などの紹介が相次ぎ、幸村誠『ヴィンランド・サガ』(2005-25)や入江亜季『北北西に曇と往け』(2016-)など日本人によるアイスランドを舞台としたマンガも人気を博しています。アイスランドと日本の間での相互の留学、アイスランド人研究者の来日と会での講演、日本人研究者によるアイスランドでの報告や現地研究者との連携も頻繁に行われるようになりました。

 こうした社会におけるアイスランドへの認識の変化を受けて、2024年度総会では、既訳と新訳による新しいサガの翻訳選集が学会事業として承認されました。2025年度公開講演会では、幸村誠氏や佐藤二葉氏らマンガ家を迎えて今後のアイスランド研究のあり方を探りました。そして2026年には、新しい世代の研究や交流を活性化させるために若手部会も発足しました。当初は北欧神話や中世文学の専門家が多かった学会も、現在は、中世から現代に至るまで、多様な関心を持つ会員で構成されています。社会におけるアイスランドへの関心の高まりを意識しつつ、日本におけるアイスランド研究のハブとして、本学会は研究の場を提供してゆくことになるでしょう。

2026年1月

日本アイスランド学会会長 小澤実

参照文献:
『日本アイスランド学会会報』(1981-)
小澤実「かくて円環は閉じる−谷口幸男の翻訳活動と戦後日本の北欧中世研究」『立教大学日本学研究所年報』20(2021):13-26頁
菅原邦城「日本アイスランド学会:研究者の結集と活動」小澤・中丸禎子・高橋美野梨編『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』(明石書店、2016)、386-389頁

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